ヨーロッパを旅行すると子供連れの若い人たちが多くて、ちょっとびっくりする。翻ってみると日本はいかに高齢化していることか。
高齢化は長寿の結果だから、悲しむわけにはいかないが、悲しむべきは社会がそれに対応していないことだ。
【トイレ・歩道・公園】
高齢者は健康のために散歩が欠かせない。しかし、トイレが近いので、心配だ。東久留米市など、先進的な自治体では公園の多くにトイレが設置してあるが、ほとんどの自治体では公園にトイレがない。
トイレは浮浪者が棲みついたりして管理や掃除に手間がかかる。しかし、その手間を惜しむかどうかが、自治体が住民のことを考えているかどうかだろう。
散歩のためには道路に歩行者用のスペースがあるかどうかが重要だ。ところが、住宅地などでも車道はあるのに歩道はない道路が大部分だ。ふらふらする年寄りは車に轢かれて死ねということか。
夏の散歩には街路樹があると日陰になって歩きやすい。ところが街路樹がある道路はきわめて少ない。街路樹も葉が落ちたりして面倒だ。その面倒はシルバー人材センターの格好の仕事になるのではないか。街づくりが高齢者の仕事を生む。
散歩にはベンチのある公園もあると助かる。
公園は児童公園のままになっているところが多い。子供がほとんどいなくなってしまい、老人ばかりになっているのだから、現実を踏まえて公園の整備をすべきだろう。
【健康保険】
先月、会社を定年退職し、健康保険は任意継続にした。保険料は年間55万円ほど。年金収入に比べてかなり大きい。しかも、その45%は高齢者のための健康保険制度に使われるという。高齢だから会社をやめさせられたのに、さらに自分より高齢の人間のために健康保険に払った金の半分近くを使われるというのは随分だと感じる。
医療費は70歳未満は3割負担だが、70歳以上は2割負担、75歳以上では1割負担となる。
高齢になるにしたがって医療費負担は減り、その分、若干でも若い人間が負担することになっている。これはおかしい。
もし、高齢者にやさしい社会をつくりたいなら、その分、若い人に健康保険で負担させるのではなく、政策として国が税金で負担すべきである。
すでに健康保険は十分に破綻しているのだから。本来政府予算で手当てすべき高齢者福祉の面倒までみるのはおかしい。
もともと健康保険というのは「お金がなくて医者にかかれないのは困る」というのが根底にある。
ところが、歳をとって、膝や腰が痛くなったとき、薬局で湿布薬を買うよりも医者に行って健康保険でみてもらって、湿布薬を出してもらったほうが自己負担が少ない。もちろん、健康保険で負担した分まで含めると医者にかかったほうが社会的費用はずっと大きい。しかし、健康保険分は他人が負担してくれているから自分の腹は痛まない。
そうした無駄が微々たるうちは社会的に問題とされないが、社会が老人ばかりになってきて、負担する若い人が少なくなってくるとそうはいかない。歪みが健康保険制度というせっかくの弱者救済のしくみを破綻させかねないところまできてしまったのである。
わたしはたとえば三千円とか1万円以下の医療費については自己負担100%でいいと思う。
その分、医者にかかる人間は実際にかかる費用を身にしみて実感すべきだ。
年金生活の中で三千円や1万円の医療費を支払うことは痛い。しかし、その分、自分で薬局で湿布薬を買うなどの節約をすることもできる。
何より、劇的に健康保険料負担が減り、国民健康保険制度が復活し、いざ重い病気にかかったときに負担してもらえることが最も重要だ。それが、健康保険制度の本来の役割なのだから。
現在の健康保険制度は医療の価格体系を歪め、医師や薬剤師の労働を不必要に増やしている。それが医療費を膨張させ、社会を押しつぶそうとしている。
【老人病院・拘束】
認知症の老人が病院に運ばれると、ベッドに拘束されてしまう。父もそうだったし、母もそうだった。
認知症の人間は点滴の針を自分で抜いてしまう。治療を進めるためには両手を拘束しておく必要があるという事情である。
一度拘束すると、(面倒臭いから?)点滴をしないときも両手が拘束したままになっていた。
拘束を解かれるのは家族が面会に来て見守っていられる時間だけ。帰るときには再び拘束される。
拘束されると人間は急速に生きる希望をなくしてしまう。
食欲旺盛だった母が食欲をなくし、自分で口を動かさなくなった。病気が治ってからも、栄養摂取のため拘束されて栄養点滴を受けていた。
廃人一歩手前だった母を「このまま拘束されて死ぬのはいやだろう」と退院させて介護ホームにもどしてもらった。
介護ホームからは「ここでは点滴を受けられない。栄養失調で死ぬかもしれない。それでもいいか」と決断を迫られた。
それでもホームに戻したら、口から食事を摂り始め、母は回復した。
病院では看護師が食べ物を口に運んでやることになるが、忙しい看護師は母の口が動くのを待っていられない。
介護ホームでは介護職員が面倒がらずに時間をかけて食事させてくれるから母は回復したのだと思う。
しかし、母は病院で拘束されていた間に手足が硬直してしまっていて、介護ホームでも寝たきりになってしまった。
認知症の老人は入院を長引かせてはいけないという教訓を手痛い代償を払って得た。
認知症の老人を拘束しておくのは介護の手間を省くためである。
人手が十分にあるところでは認知症の老人も拘束されずに済む。これは介護ホームでも病院でも同じである。
認知症で胃瘻(管で栄養を胃に直接流し込む)をしていた父は退院後の介護ホームでも両手を拘束されていた。
可哀想だったので認知症の老人専門の病院に移した。その病院では看護師が手厚く配置され、いつも患者を見守ることで拘束しない介護をしていた。
認知症の老人を拘束するような介護ホームは介護ホームとして失格だろう。
しかし、一般の病院に認知症の老人が入院した時、拘束するのは止むおえない面があると感じる。
病院は治療の場であって、介護の場ではないからだ。
しかし、認知症の老人が増えている現状で、しかも、多くの老人が病院で死ぬ現状でこれは悲惨なことだ。
両手を縛られ、管につながれて死んでいくことになるからだ。
だれしもいつかは死ぬ。しかし、両手を縛られ、管につながれて死んでいくのはいやだ。
【認知症→家庭裁判所の人員増加を】
わたしは認知症の母の成年後見人をしている。
家庭裁判所が成年後見人に選んでくれた弁護士がまともに仕事をしないので、長い交渉の末、わたしが自分で成年後見人を引き受けた。
書類を引き継いで、前任者のずさんな財産管理とそれをまともにチェックしない家庭裁判所に怒りを覚えた。
弁護士の報告書は姉の名前を含むケアレスミスが目立った。
より悪質なのが家族を中傷する報告である。
弁護士は母の入院中1度も面会に来ていなかった。
そして、退院後の報告で、「家族が治療中の母を無理に退院させ、その後の介護ホームでも点滴をさせないようにしている」と嘘の報告をしていた。
まるで家族が遺産を目当てに母を早く死なせようとしているかのようだ。
その上で、口うるさい家族の対応に手間がかかっていると報告し、成年後見人としての報酬を上げるよう要求していた。
家庭裁判所には判事のほか、書記や調査員という肩書きの職員もいる。
調査員が病院や介護ホームに問い合わせれば成年後見人の嘘の報告がわかるはず。
直接の調査を怠って、成年後見人の書面での報告だけでことを済ませようとしているから、チェックがうまく働かない。
高齢化に伴って認知症の老人は増えた。その分、家庭裁判所の職員が増えたとは思えない。
家庭裁判所の職員の質とともに職員数の充実が緊急の課題だと思う。
また、相変わらず紙に頼っている文書管理のあり方も変えるべきだろう。
文書の検索や財産管理はコンピュータ化でずっと省力化できる。
どんな遅れた企業でも民間ならとっくにやっていることだ。
ところで、この弁護士から成年後見人を引き継ぐ際、引き渡された書類の中にはこの弁護士が成年後見人を務めていた別の顧客2人の書類も紛れ込んでいた。
だれが被成年後見人かは高度なプライバシーだ。ずさんな書類管理で、私という部外者にプライバシーが漏洩してしまったことになる。
【ゴミの分別と自治体の無分別】
介護ホームに入るまで認知症の母は一軒家で一人暮らしをしていた。その際に困ったのがゴミの分別である。
ゴミの分別は、まだそれほど呆けていない私の頭でもむずかしい。
母は燃えるゴミと燃えないゴミの分別さえできなかった。
間違いを何回も指摘すると母は怒り出し、ものを投げつけた。
高齢化対策が自治体の重要な課題になる中で、なぜゴミ出しが改善されないのか疑問だ。
ゴミは分別収集されるが、処理する段階では一括処理されるという話を読んだことがある。
金属など資源ゴミや電池など有害ゴミを除いて焼却処分できるという。
昔はプラスチックは高カロリーすぎて焼却炉を壊してしまったが、今は焼却炉が高性能になってプラスチックも他のゴミと一緒に燃やせるらしい。
いずれにしても認知症の高齢世帯が増える中で、全世帯に分別収集を求める今のやり方は無理になってきている。
【文字は大きく】
日本は文字の多い社会だと思う。それゆえか、それにもかかわらずか、文字の大きさは小さい。
パリの地下鉄の駅名表示は文字の大きさが1メートルほどもあった。日本の地下鉄の駅名表示は大きくても15センチ程度にすぎない。車両内からどの駅か非常にわかりづらい。
マイナンバーカードを実際に受け取って、これは間違い無く失敗だと直感した。一番重要な個人番号は4ミリ、氏名は3ミリあるが、そのほかの文字は1ミリか2ミリ。老眼では非常に見難い。国民全体を対象に設計したカードとしては拙劣だ。制度面だけではなく、デザインも失敗している。
薬品の説明書きもひどい。成分表示などはどうせ見てもわからないからいいが、1回に何錠飲むのか、1日何回飲むのかの表示が1ミリの文字で書かれているのは困る。
表示を考える際には、内容の重要性、必要な頻度にしたがって文字の大きさを変えたりするが、そうした工夫は一切見られない。
すべてを小さな文字で書くということは、「一応書いておくが、どうせ見ないでしょ」という表示する側の考えが透けて見える。